感情を素直に吐き出すブログ

浮かんだ感情を言語化することで自分の輪郭をハッキリさせます

ゴミを出す人、ゴミを片付ける人、ゴミを出すまいとする人

AさんBさんCさんDさんはみんなで食事をしました。それは豪華で素敵なコース料理です。

はじめに出てきた料理はAさんの嫌いなものでした。
Aさんは食べたくないのでBさんにこれを押し付けました。Bさんはあまり好きではなかったのですが仕方なく食べました。

2品目の料理はAさんの好きな料理でした。Aさんは自分の分を食べ終えた後にBさんにこう言います。
「さっきあげた料理の分、交換で2品目の料理ちょうだい」Bさんは、本当は食べたかったけど仕方なくあげました。

食事会が終わり、Aさんの前には嫌いで食べなかった料理が残されています。Aさんは「あー美味しかった、さて次は何をしようかな」と早々に立ち去ってしまいました。

この料理屋さんでは後片付けは食事をした人がしなければいけません。
BさんはAさんの残した料理を一生懸命片付けています。


時はさかのぼり…

CさんDさんは美味しく食事をしていました。
多少苦手なものも、食材とは好き嫌い以前に全て大切なものと食べています。

途中、Cさんはどうしても食べれないものが出てきました。CさんはDさんに言いました。
「どうしても食べれないので、Dさん食べてもらえないでしょうか?もしDさんが食べれないものが出てきたら私が食べますから」
Dさんは了承してCさんの食べれないものを食べてあげました。その後Dさんがどうしても食べれないものをCさんは食べてあげました。

食事会が終わり、CさんDさんの前には残さず食べた空の皿だけがあります。
2人は一緒に後片付けをして、帰りました。

Aさんは自分の欲を第一として行動しており、好きなことしかやらず、嫌な事は他人に押し付ける、もしくはやりません。
Aさんはゴミを出す人

Bさんは自分の意思を通すことが苦手で声が小さく、他人から押し付けられることがよくあります。
Bさんはゴミを片付ける人

CさんDさんは自分の事は自分でやろうと行動しており、どうしても出来ない事は、人を頼ります。
その代わり、ちゃんと恩を返す事を忘れません。
2人はゴミを出すまいとする人

あなたはどのタイプでしょうか?
そして周りにいる人はどのタイプでしょうか?
みんながCさんやDさんの様になれればきっと楽しい食事会になるのではないでしょうか?

スト6的生き方【自己解釈】を目指そう

「スト6は大した売上じゃないみたいですよ」

そんな話を美容室の人と話をした。
でも格ゲーの存在感を現代の世に知らしめた。
その結果、格ゲーブームが今巻き起こっている。

スマホゲームのような課金当たり前コンテンツは、ヘビーユーザーが高額課金することで、ユーザーを減らしていっても儲かる仕組みになってる。

ユーザーは増えるが売上はそこそこ
ユーザーは減るが売上は稼げる

この違いはなんなのか?
フォロワーが増えることと減少する事だけを考えたとき、フォロワー🟰支持者がいるということは、存在をより強固にすることにつながり、影響力をもつことになる。

現代社会における資本とは絶対的パワーだと思う。資本の価値は低下していくみたいな話を聞いたことがあるが(資本のない筆者の言い訳のように聞こえるが)仮にそうなるとすれば影響力が社会における絶対的パワーになるのか?
ストリートファイターはファンを増やし、多くの人を熱狂させた。筆者もその1人であり、30年前のその記憶は鮮明である。
ストリートファイターの映像を見ると、色々な記憶が蘇る。当時、筆者は中学生だった。楽しい思い出、嫌だった学校の事や、好きだったあの娘のことまで思い出せる。記憶は繋がっており芋蔓式に蘇る。

現代において資本を追いかけて生きることは当たり前である。
もし、スマホゲームやストリートファイターを自分自身の生き方として当てはめた場合、どうなるだろうか?

目の前の資本を追いかけることにより、人からの信頼を手放すことはスマホ課金ゲーム的生き方であり、
資本はそこそこで、価値の鮮麗に重きを置くことこそスト6的生き方なのではないだろうか?

もっと具体的にしてみよう。

"資本を追いかける"とは、利己的行動のようなもので、他よりも得したい、自分がもっと欲しいという事。
"価値の鮮麗"を、利他的行動につながるとしたら、自分という存在は他に対してどのような価値があるのだろうか?自分自身をより理解して鮮麗して、他者への影響をより良いものに仕上げる。

今、この手に多くの資本がなくとも、自己を理解して自分をより鮮麗させる事で他者を照らす事が出来ればそれは利他であり、関わる人達の心に残る存在となる。

どう生きたいか?の答えは"私はこう生きる"を明らかにする事である。

色々と書いておきながら筆者はスト6を持ってはいない。「格ゲーはつかれるんだよなー」と本音を漏らしつつ、熱中できる余裕を生み出すほどの資本は持ち合わせていない。

切実な悩みだ。

皆、自分に忠実に行動してる。それだけのこと。

人は帳尻を合わせるもの。
嬉しいことがあれば、苦しいことも我慢できる。
嫌なことがあれば、その感情を吐き出す。
愛されていれば、人に愛を向けることもできる。
孤独であれば、それを正当化するために自分を仕向ける。

友人は鬱だ。
もともと前職でのストレスが決定的な引き金になったと聞いたが、後々家庭の環境もあったのだろうと言う事も知った。

今働いてる(正確には先日退職した)職場でパワハラを受けていたらしい。
内容を聞けば確かになかなか酷いもので、仕事をあからさまに妨害され、お前はできてないと罵られ、決して受理されることのない反省書の提出方法は、紙にペンで誤字なく書くという(誤字があれば一からやり直し)何の意味があるのかわからない、ただの嫌がらせとしか思えない内容だった。
毎日のように「もっと周りを見ろ」だとか、「考えて行動しろ」とか言われ続けていた。

受けた仕打ちにより芽生えた友人の負の感情が向かう先は、その友人である筆者だった。
時間も関係なくLINEで、仕事の話をしてきた。
こちらの理解は必要なく、一方的にわからない話を永遠としているのだ。
「今日は忙しかった、明日はこんな仕事がある、自分はよくやっている、評価されている、先輩の指導がなってない、環境が悪い、上司は厳しいがすごい人だ」
流石にわからない話をされても反応に困る。

徐々にズラしていたら電話が来るようになった。
一回あたり、1時間以上は毎回当たり前だった。
その間、わからない話を聞かされ、たまにこちらの話をしても特に反応はなく、すぐさま自分の話を始めていた。
だんだん厳しくなって来たので、電話もズラしていたら、ある日の夜インターホンがなったと思ったら友人だった。
ここ最近いきなり自宅に来られるのは、筆者の母親位なものだ。それであればまぁ仕方ないと思えるが、同級生の友人となるとビックリする。
しかも「ちょっと近く来たから顔出した」程度であれば軽く喋って「じゃあね」と済むが、その友人は会うなり「電話したんだけどね」と一言言われ「ちょっといい?」とそこから2時間以上話を聞くこととなった。
色々と理解し難いが、上司や先輩からのパワハラ、元々鬱を患った背景、家庭の環境など複雑すぎる要素が、この状況を引き起こしているのだなと、薄ら理解した。

多分、職場で押し付けられた"何か"は形を変えてでも排出しなければ本人が壊れてしまうのだろう。

今朝友人から電話が来た。土曜の朝9時前というまぁまぁなタイミングだ。
内容は、引っ越しをしたが、テレビと折りたたみソファを運びたいという内容だった。
「1時間位で終わるんだけど今日時間ある?」
待て待て、今初耳だし俺をなんだと思ってるんだ。
多少苛立ちはしたが、とりあえず感情を抑えつつ今日は無理であることをつたえた。
どうすれば良いか?と聞かれたが、俺に何を言わせたいのか?と思いつつ、やんわりと流した。

友人はそういう人だ。
仮に、そう言った態度が原因でパワハラ気質の上司や先輩が自らの経験から得た"歪んだ正義"を掲げながら「コイツはガッツリやらんとダメな奴」と判断したならば、それは友人からすればパワハラに映ったのだろう。
※前記に「厳しいがすごい上司」とあったが、そう思い込むことで理不尽な指導を自分の中で正当化してるのだと理解
どちらが悪いか?その問い自体意味がない。
こうなったからこうなったのだ。

上司や先輩はおかしいと判断したから軌道修正したし、友人はその軌道修正によりおかしくなったから、自分に対しての軌道修正🟰帳尻を合わせる行動をしたのだ。
つまり皆、自分の中心に合わせるために行動したまでなのだ。
では筆者は何かしたかというと、このブログを執筆し、これまでの事象を納得させる事で締めくくろうとしている。

皆、自分に忠実に行動してる。それだけのこと。

友人は退職したので行動は収まってくるだろうし、筆者から連絡を積極的に取ることはないだろう。
適度な距離感を保ちつつ、筆者もまた自らに忠実に生きていくだけ。それだけのこと。

羨ましいと思ったら自分の歩いてきた道を振り返ろう

他人を見て羨ましいなと思う時、部分的比較をしていることに気付くと案外、自分は自分と受け入れることができる。

仮に部分的に羨ましいと感じたとしよう。
羨ましい結果とは、ちゃんとそれに見合う原因があり、過程があり、結果へと結びついてるのだ。

なんならその過程で物凄い苦労や波乱や修羅場があったかも知れない。
そんな事は知らぬと一方的に「羨ましい」と思ってしまっている自分はなんて身勝手なのだろうとも思う。

では自分はどうなのだろう?他人から羨ましがられることなど何もない。自慢できる物は何もない。なにも得られておらず、成し遂げていない自分は不幸で愚かで情けない。

人?日本人?どちらかわからないが「自分は他よりも優れている」と思っていそうな人の事を、勘違い者や謙虚さが無いと言った風な扱いをする。
そのくせ、他人より劣っていると悲観しては、他人を一方的に羨ましがり、不幸だと嘆く。

改めて考えると見渡す限り、立派な矛と盾を装備してる猛者だらけだ。

「あの夫婦仲良さそうで良いな」
「元気な子だな、うちの子もあれくらい元気なら」
「あの娘、すごくスタイル良いな」
アルファード乗ってて良いな」

もしかすると、家では超恐妻家で旦那さん毎日仕事、家事を全てこなし、休みには旦那サプライズが定例行事なのかも知れない。

もしかすると、外ではすごく元気だけど、家ではスマホ中毒で部屋から全く出てこなくて、変な知識を持ったが故に「お父さんみたいな負け組にはならない」とか言ってて、将来の夢はインフルエンサーかも知れない。

もしかすると、スタイル良いけど一日の摂取カロリー1.000Cal以下の無理なダイエットやってて、そのせいで心病んでて、その隙をダメ男に突かれてパチ狂いで無職なのに「お前が1番大切」とかいう謎の言葉を糧としてるかも知れない。

家は賃貸で契約社員なんだけど、「俺はこんなもんじゃねえし」という言葉を胸にTOYOTAへ向かい、「残クレで夢のアルファード手に入るんですよ」という社員の嘘では無いけど、ある意味詐欺まがいの言葉に輝かしい未来を抱いているのかも知れない。

みんな何かを得る為になにかを差し出していて、誰かだけすごく得してるとか無いんじゃ無いかな。
そもそも比較のしようがないし、別人にでもなれなきゃわからない。

そう考えることができたら、反射的に浮かぶ「羨ましい」という感情は身勝手であり、自分は優れてるとか、凄いとか、比較しようの無いただの妄想から目を覚まし、普段通りの日常をおとなしく送れば良いのだ。
良いも悪いもなく、意味もなく、今ここにいる事こそ事実なのだから、余計な事を考えず、楽しいと思う事をやり、美味しいと思う物を食べ、嫌だということは適当にこなして生きていけば良いのだ。

どう願っても、今までやってきたことは変わることはなく、原因があって結果があるだけなのだから。
羨ましいと思ったら、自分が今まで歩いてきた道を振り返れば「そりゃそうなんだろうね」となる。

それで良いじゃない

一つ一つ諦める事で自分を知る

「諦める」と聞くとどうもネガティブな印象を受けてしまう。

最後まで諦めるな、諦めなければ失敗ではない、諦めたらそこで試合終了…

何かと「諦める」事は悪いことと世の中根付いているのだろうと思う。

仏教では「諦める」とは「あきらかにみる」であり「明らかに真実を見る」であり、何の偏見や前提や思いこみなどを交えず、ありのままに見る・知るということであり、決してネガティブなものではなく、むしろ自分をありのままに見る事で、自分を知る事だと。

今の自分を明らかにする(諦める)とは、自分のありのままを受け入れて「これで良いじゃない」と素直になるようなイメージです。
そうするととても楽になるんですね、色々と。

私も諦める事は嫌いで、きっと続ければうまくいくはずと仕事に対して前向きに取り組み、人と分かり合う努力をして、先の見えない状況であってもポジティブに取り組むことで自分を維持していたのでしょう。
その結果、成長出来た部分も沢山あった。

しかし、そんな日々の中、悪いタイミングが重なったのか、私は左小脳梗塞で倒れて緊急入院となった。

入院当初は歩く事も出来ず、酷いめまいが一日中続き、嘔吐し続けるなど散々な状態。
しかし、少し動けるようになった時から少しでも良くなりたい一心で、リハビリ以外にも自主トレに打ち込んでいた。
何故こんなことになったのか?
あいつのせいだ、会社が悪い、
寝る時になると無性にイライラしてきて、眠れない日々が続いた。
きっと良くなるはず、元に戻るはずだと言い聞かせながら病院の廊下を毎日歩き続けてた。

結果、幸いにして大きな障害は残りませんでしたが、若干の左半身失調と若干の舌の麻痺、疲労時に軽いめまいが起きる後遺症は残った。

しばらく生活をしていると気づいたのですが、元に戻るものではなく一生この条件なんだなと。

失調は残るから以前のような全力疾走は諦めよう。

ロレツは戻らないから心地よく歌を歌うのは諦めよう。

疲れるとめまいが起きてしまうから、行動制限を自分で作ろう。仕事も以前のように全力ではなく、セーブしよう。

それは辛さと言うよりもすんなりと受け入れた方が楽で、受け入れた上で「さてどうしようか」と行動を起こす事が出来た時、自分自身が一皮剥けたように感じた。
色々とどうでも良くなった感じで、思っていたよりも自分は拘りが強く、執着が強く、欲深かったんだなと気付いた。

ポジティブに諦めることをは、
自分の価値観や本質について考えることで、
あれは拘りだなとか
これは執着だなとか
それは欲だなとか
明らかにしていって自分を知ることなんだなと脳梗塞の体験を通じて理解できた。

目的は個人、目標は集団と捉える

会社で何かと噛み合わない先輩、上司などと衝突、又は嫌な思いが絶えないと悩む方もいるのでは無いか?

家族内で、妻や夫と話をしててもイライラする、子供が全く言う事を聞かない。

友人と遊びに行っても、こちらばかりが我慢しているように感じる。

日々感じる違和感は一体なんなのか?と考えても答えのようなモノは出てこない。

その原因は、目的と目標がごちゃごちゃになっており、個人の価値観により目的は違い、目標がイマイチ全員に明確では無いと言う事なのでは?と気づいた。

例えば、会社における目標は「予算」のようなモノだろう。しかし、その会社に勤める目的とは十人十色であり、お金という人もいれば承認欲求や地位、名誉などもある。

家族というある程度まとまった集団であっても自我をもつようになれば、「毎日が楽しく」「落ち着いた日々」「好きなものに囲まれる日々」など目的は様々だろう。

友人との間でも「友達という関係性を楽しみたい」「ストレス発散」「承認欲求」など違いはあるのだろう。

それらは、個人の価値観の違いによるものであり違って当たり前である。

その目的により、ルールは変化する。

「地位」が目的であればルールとしては、上司には絶対逆らうべきではなく、「自分らしく生きる」が目的とはであれば、自分の意見を突き通す位のスタイルになるだろう。

つまり、価値観の違いから生まれる目的によって、個人のルールが生まれて、そのルールを破ることをされると人は怒りを感じるのでは?と思う。

しかし、人の数ほどの価値観があり、見た目こそ人間であるが、同じ人間など基本的には存在しない訳だから、他人を「何故わからないか!!」と激怒する事は意味を持たないだろう。

目的は人の数ほどあっても良いだろう。


しかし目標は違う。


もし目標が人の数ほどあれば、すべての人が自分勝手に行動するだろう。

それは集団ではなく、個人がたまたま近くにいるだけだろう。
もし、集団として何かを成し遂げたいと考えるなら、目的と目標は分けて考えるべきだろう。

目的が近い=価値観が近いもの同士であれば、自然と行動パターンも近いものになり、やりやすいと感じる訳だ。

しかし現在における価値観の多様性は過去に類を見ないほどであり、その理由として、インターネットの普及による情報の自由化とメディアの情報独占が薄れている事が原因なのではと感じる。

すなわち現代における「集団のエネルギー」を最大限に活かす方法とは、目的=価値観の違いを理解して尊重しあえる風土作りと、目的の明確化と徹底した共有、ルールの設定においては「ここは絶対に守るべき」を多過ぎない程度に決める事だろう。

これほどの多様性という、知の塊をまとめ上げ、進むことができれば過去では成すことが出来ないほどの価値を作ることが出来るのではと可能性を感じずにはいられない。

しかしながらそれは、容易いことではなく、その集団をまとめる人材は必要であり、その適性も一つの個性として扱う必要があるだろう。

つまり、他の個性のついでに集団をまとめるという、よくある上司では成り立たなくリーダーシップという個性は集団の能力を最大化するためと割り切り、そのリーダーの過去の功績は別と捉えるべきだろう。

話がだいぶ偏ってしまったが、目的を互いに認め合い、目標を明確にして、目標に対する守るべきルールを設定することが、皆が個性を活かして前進する方法なのではと思う。

どんな場面であっても集団である以上、目的、目標、ルールを明確にすると楽になるのでは無いだろうか。

「今ここに生きる」は人生の時間を決める

頭の中で何を考えているだろうか?
美味しいのもが食べたい、楽しい場所に行きたい、ステキな洋服が欲しい
YouTube、ゲーム、インターネット
沢山の情報や感情が常に頭の中には存在している。
楽しみや喜びに浸る事は悪い事では無いし、時には悲しみにも人生には必要だろう。

そんな時、身体は何をしているだろう?

基本的には行動は限りなく停止していると思う。
大抵、頭の中で考えている時は、未来のこと、過去のこと、自分が居る場所以外のことで埋め尽くされている。
部屋の中にいて、横になりながら、ドリンクを飲みくつろいでいる姿は見えていない。
もし、自分を映しているカメラがあり、1日を通じて撮影されていたとして、その映像を見た時、自分はどんな感情を持つだろう?
どれほど時間を進めてもその場から動くことのない自分に悲観するだろう。
決して、それらが全て悪いというわけではない。
しかし、1日24時間という枠の中で、今ここ=自分を生きている時間はどれほどなのだろう?

人生とは長いとか短いとか様々な意見を聞くが、自分の時間をどれほど生きているか?で人生の長さはきまるのではないか?
ただでさえ時間が足りないと嘆く現代人がタイパ(タイムパフォーマンス)と声を高らかと上げ、時短グッズを取り入れることこそ人生の時間を確保する事だと認識しているのだろう。
その多くは、過去未来、どこかの夢の国に生きており、今ここにはいない。

今ここではない訳なので、当然今はなにも変化していない。つまりなにもしていないと同じなのである。

こう言うと文句の一つ二つは言われてしまいそうだが、私自身もそうであり、何もしていないと振り返る日を感じていると言う事である。

今ここに生きてみると、案外日常とは平凡であり、平凡とは幸せなのだと強く感じる。
平凡が幸せであり、今ここに生きることで自分の人生が目一杯生きることが出来たとすれば、人生は幸せだったと言えるのかもしれない。

なにを求めるかは自由なのだろうけど、個人的には「人生の目標=幸せに生きる」
であるので、今ここに生きることにより平凡を愛し、天気の良さに幸せを感じれる程になれば「長い人生幸せに生きる」ことになると思う。

それ程単純ではないと理解しているが、今ここに生きる事こそ人生の時間を最大限にするのだという自論。