一つ一つ諦める事で自分を知る

「諦める」と聞くとどうもネガティブな印象を受けてしまう。

最後まで諦めるな、諦めなければ失敗ではない、諦めたらそこで試合終了…

何かと「諦める」事は悪いことと世の中根付いているのだろうと思う。

仏教では「諦める」とは「あきらかにみる」であり「明らかに真実を見る」であり、何の偏見や前提や思いこみなどを交えず、ありのままに見る・知るということであり、決してネガティブなものではなく、むしろ自分をありのままに見る事で、自分を知る事だと。

今の自分を明らかにする(諦める)とは、自分のありのままを受け入れて「これで良いじゃない」と素直になるようなイメージです。
そうするととても楽になるんですね、色々と。

私も諦める事は嫌いで、きっと続ければうまくいくはずと仕事に対して前向きに取り組み、人と分かり合う努力をして、先の見えない状況であってもポジティブに取り組むことで自分を維持していたのでしょう。
その結果、成長出来た部分も沢山あった。

しかし、そんな日々の中、悪いタイミングが重なったのか、私は左小脳梗塞で倒れて緊急入院となった。

入院当初は歩く事も出来ず、酷いめまいが一日中続き、嘔吐し続けるなど散々な状態。
しかし、少し動けるようになった時から少しでも良くなりたい一心で、リハビリ以外にも自主トレに打ち込んでいた。
何故こんなことになったのか?
あいつのせいだ、会社が悪い、
寝る時になると無性にイライラしてきて、眠れない日々が続いた。
きっと良くなるはず、元に戻るはずだと言い聞かせながら病院の廊下を毎日歩き続けてた。

結果、幸いにして大きな障害は残りませんでしたが、若干の左半身失調と若干の舌の麻痺、疲労時に軽いめまいが起きる後遺症は残った。

しばらく生活をしていると気づいたのですが、元に戻るものではなく一生この条件なんだなと。

失調は残るから以前のような全力疾走は諦めよう。

ロレツは戻らないから心地よく歌を歌うのは諦めよう。

疲れるとめまいが起きてしまうから、行動制限を自分で作ろう。仕事も以前のように全力ではなく、セーブしよう。

それは辛さと言うよりもすんなりと受け入れた方が楽で、受け入れた上で「さてどうしようか」と行動を起こす事が出来た時、自分自身が一皮剥けたように感じた。
色々とどうでも良くなった感じで、思っていたよりも自分は拘りが強く、執着が強く、欲深かったんだなと気付いた。

ポジティブに諦めることをは、
自分の価値観や本質について考えることで、
あれは拘りだなとか
これは執着だなとか
それは欲だなとか
明らかにしていって自分を知ることなんだなと脳梗塞の体験を通じて理解できた。

目的は個人、目標は集団と捉える

会社で何かと噛み合わない先輩、上司などと衝突、又は嫌な思いが絶えないと悩む方もいるのでは無いか?

家族内で、妻や夫と話をしててもイライラする、子供が全く言う事を聞かない。

友人と遊びに行っても、こちらばかりが我慢しているように感じる。

日々感じる違和感は一体なんなのか?と考えても答えのようなモノは出てこない。

その原因は、目的と目標がごちゃごちゃになっており、個人の価値観により目的は違い、目標がイマイチ全員に明確では無いと言う事なのでは?と気づいた。

例えば、会社における目標は「予算」のようなモノだろう。しかし、その会社に勤める目的とは十人十色であり、お金という人もいれば承認欲求や地位、名誉などもある。

家族というある程度まとまった集団であっても自我をもつようになれば、「毎日が楽しく」「落ち着いた日々」「好きなものに囲まれる日々」など目的は様々だろう。

友人との間でも「友達という関係性を楽しみたい」「ストレス発散」「承認欲求」など違いはあるのだろう。

それらは、個人の価値観の違いによるものであり違って当たり前である。

その目的により、ルールは変化する。

「地位」が目的であればルールとしては、上司には絶対逆らうべきではなく、「自分らしく生きる」が目的とはであれば、自分の意見を突き通す位のスタイルになるだろう。

つまり、価値観の違いから生まれる目的によって、個人のルールが生まれて、そのルールを破ることをされると人は怒りを感じるのでは?と思う。

しかし、人の数ほどの価値観があり、見た目こそ人間であるが、同じ人間など基本的には存在しない訳だから、他人を「何故わからないか!!」と激怒する事は意味を持たないだろう。

目的は人の数ほどあっても良いだろう。


しかし目標は違う。


もし目標が人の数ほどあれば、すべての人が自分勝手に行動するだろう。

それは集団ではなく、個人がたまたま近くにいるだけだろう。
もし、集団として何かを成し遂げたいと考えるなら、目的と目標は分けて考えるべきだろう。

目的が近い=価値観が近いもの同士であれば、自然と行動パターンも近いものになり、やりやすいと感じる訳だ。

しかし現在における価値観の多様性は過去に類を見ないほどであり、その理由として、インターネットの普及による情報の自由化とメディアの情報独占が薄れている事が原因なのではと感じる。

すなわち現代における「集団のエネルギー」を最大限に活かす方法とは、目的=価値観の違いを理解して尊重しあえる風土作りと、目的の明確化と徹底した共有、ルールの設定においては「ここは絶対に守るべき」を多過ぎない程度に決める事だろう。

これほどの多様性という、知の塊をまとめ上げ、進むことができれば過去では成すことが出来ないほどの価値を作ることが出来るのではと可能性を感じずにはいられない。

しかしながらそれは、容易いことではなく、その集団をまとめる人材は必要であり、その適性も一つの個性として扱う必要があるだろう。

つまり、他の個性のついでに集団をまとめるという、よくある上司では成り立たなくリーダーシップという個性は集団の能力を最大化するためと割り切り、そのリーダーの過去の功績は別と捉えるべきだろう。

話がだいぶ偏ってしまったが、目的を互いに認め合い、目標を明確にして、目標に対する守るべきルールを設定することが、皆が個性を活かして前進する方法なのではと思う。

どんな場面であっても集団である以上、目的、目標、ルールを明確にすると楽になるのでは無いだろうか。

「今ここに生きる」は人生の時間を決める

頭の中で何を考えているだろうか?
美味しいのもが食べたい、楽しい場所に行きたい、ステキな洋服が欲しい
YouTube、ゲーム、インターネット
沢山の情報や感情が常に頭の中には存在している。
楽しみや喜びに浸る事は悪い事では無いし、時には悲しみにも人生には必要だろう。

そんな時、身体は何をしているだろう?

基本的には行動は限りなく停止していると思う。
大抵、頭の中で考えている時は、未来のこと、過去のこと、自分が居る場所以外のことで埋め尽くされている。
部屋の中にいて、横になりながら、ドリンクを飲みくつろいでいる姿は見えていない。
もし、自分を映しているカメラがあり、1日を通じて撮影されていたとして、その映像を見た時、自分はどんな感情を持つだろう?
どれほど時間を進めてもその場から動くことのない自分に悲観するだろう。
決して、それらが全て悪いというわけではない。
しかし、1日24時間という枠の中で、今ここ=自分を生きている時間はどれほどなのだろう?

人生とは長いとか短いとか様々な意見を聞くが、自分の時間をどれほど生きているか?で人生の長さはきまるのではないか?
ただでさえ時間が足りないと嘆く現代人がタイパ(タイムパフォーマンス)と声を高らかと上げ、時短グッズを取り入れることこそ人生の時間を確保する事だと認識しているのだろう。
その多くは、過去未来、どこかの夢の国に生きており、今ここにはいない。

今ここではない訳なので、当然今はなにも変化していない。つまりなにもしていないと同じなのである。

こう言うと文句の一つ二つは言われてしまいそうだが、私自身もそうであり、何もしていないと振り返る日を感じていると言う事である。

今ここに生きてみると、案外日常とは平凡であり、平凡とは幸せなのだと強く感じる。
平凡が幸せであり、今ここに生きることで自分の人生が目一杯生きることが出来たとすれば、人生は幸せだったと言えるのかもしれない。

なにを求めるかは自由なのだろうけど、個人的には「人生の目標=幸せに生きる」
であるので、今ここに生きることにより平凡を愛し、天気の良さに幸せを感じれる程になれば「長い人生幸せに生きる」ことになると思う。

それ程単純ではないと理解しているが、今ここに生きる事こそ人生の時間を最大限にするのだという自論。

環境設定は難しいからこそ効果がある

健康、ダイエット、筋トレ、なんにせよ目標に対して環境設定こそが重要だということは(マイナス要素を解消している事を前提として)理解しているが、そう簡単ではないということも理解している。

現在の取り巻く環境や生活リズムを「自身がコントロール出来ない範囲」という考え方をすると、尚更ハードルは上がってしまうように思える。

そう考えるなら、まずは自身は何をコントロール出来るのか?に注目するべきだろう。
例えば、朝食、昼食、夕食のどれかならどうだろうか?この中の朝食だけ、又は昼食も自身ができるのではないか?

間食は自身がコントロールできるものだと思う。

仕事の都合で飲食しなければならない人もいるだろう。どうしても難しいなら量を減らす又は、「最近胃の調子が悪くて…病院に通ってるんです。(嘘でもよい)」など、断る理由を述べるなどの努力は必要なのだろう。
流石に、体調不良の人に無理やり食べさせる職場自体問題のようにも思えるので。

運動はどうだろうか?

残業続きで運動する時間が取れない、ストレスでやる気が出ない、疲れ過ぎて運動どころでは無いなど、そういう状況は、自身がコントロールできない範囲だったりするので、こういう時期と割り切るのも正しい。
そんな時は、せめてストレッチの時間を10分でも設けてあげよう。

ここでのポイントは「自分の身体と向き合う時間を作る」という事だろう。

向き合う事をしないと、人は段々とどうでもよくなるものだ。
向き合い続ける事で、そのほかの環境継続にも大きく影響する訳で、それは目標達成にも大きく影響する。

筋トレはどうだろう?

私が思う筋トレへの環境作りは、勿論色々な書籍や情報を得る事は重要であり様々な情報を、実践することも大切である。

しかし、それらの情報を完全に鵜呑みにすることは正解ではなく、自身の身体に向き合いながら
果たしてどのような効果がでているのだろうか?
という事を試行錯誤する事を踏まえる事が必要だ。

そのトレーニング法が全ての人に効果的であるということは言い切れないのである。

個体差があり、年齢差があり、性格が違い、取り巻く環境が違うのであれば、その人に合うやり方がある。
だからこそ、試行錯誤が必要なのだろう。

目標に対する環境作りは、当然目標に対して正しいアプローチができる知識がなければいけない。

この正しいアプローチこそが難しく、経験した事がないものであれば自分では作り上げることはできない。
沢山の情報の中、ある程度のおおまかな正解はあるだろう。可能であれば他者から教えてもらえれば正しいアプローチに近づくことは出来るとおもうが、そこからもう一歩踏み込むためには、やはり試行錯誤は必要であり、理想への情熱も必要なのだろう。

全ての条件を満たすことは決して簡単な事ではなく、むしろ奇跡的なほどのことにも感じてしまうが、自身が行動することでそれらに少しずつでも近づくことはできるのだろう。

目標達成に対して、環境設定をする事こそが重要であることは、それだけ大変なことでありそれ故に大きな変化をもたらしてくれるのだろう。

情報の精査という観点で考えるなら、
楽して痩せれる、筋肉が自動で鍛えられる、これだけで引き締まる

そう言った文句は大抵効果はなく、現代のマーケティング要素の強いものが多いのだろう。それらを全て否定するつもりはなく、ニーズがあるからサービスとして成り立っているのだろう。

大きな市場であるからこそ、その本質を見極めるには知識と経験が必要であり、そこを探り当てることに楽しみを見出している。

情報精査をしつつ試行錯誤しながらアプローチして、環境を作り上げていくことが、目標達成の最短であり、難しいからこと効果があると言うのも納得である。

自分に不真面目に生きる難しさ

自分に真面目な人は沢山いる。
何故なら、じぶんはカワイイもの、大切であり、なんとかしてあげたいもの。
自分に似合う服装は何か?と悩み、今までの人生経験なんかを武勇伝のように引っ提げて、他人についつい意見してしまい、他と比べて優位に立てるかを真剣に考える。とても自分に真面目である。
真面目だけに、色々なものに衝突する。
悩み、苦しみ、悲しみが常にあるように思う。

自分に不真面目とは、どう言う意味なのか?
掴みきれない。
もしかすると、拘りや意見を持つことは真面目であり、それを他人にぶつけてしまっている時、それは真面目であり、悩み苦しみ悲しみを感じているのかもしれないし、悩み苦しみ悲しみを与えているのかもしれない。
でも本人は真面目だから、悪気はなく、相手の為と思い振舞っているのだろう。

「真面目とは良い事」と受け止めることが自然に感じる。しかし、それは他人に対して真面目である事なのではないだろうか。
大好きな、みうらじゅんさんが言ってた言葉
「自分に不真面目、他人には真面目に」
感覚では伝わったが自分に落とし込めていない。

とあるラジオで聴いた言葉
「他人とは良くも悪くも、何もできない」
この言葉が何故かヒントのように聞こえた。
「良くも悪くも」と言うことは、どれだけ良い事だと思い他人のためと思いを伝えたとしても結局はその人が変わろうとしなければ無駄。
他人の悪意に満ちた言葉を受け止めてしまえば、辛い気持ちになるだろうけど、自身が悩む事自体バカ馬鹿しく、まともに受け取る必要もなく、そのような義理もないと思えれば、苦しむ事もないのだろう。

それは一見、真面目という名を我が物顔に
自己愛の強い、ワガママで未熟な者が言う戯言位に
捉える方が良いのだろう。
同時に、自分が自分に真面目であるということを疑う必要があり、戒めるべきだろう。

まとめると「他人とは良くも悪くも何もできないのだから、自分に不真面目位が丁度よくて、でも他人には真面目にしよう」
"自分に不真面目、他人に真面目"
この捉え方が最高に難しいが、
きっと自分に必要なものだと強く感じるから、
書かずにはいられないのだろう。

目標に対する環境設定PDCA

何が目標なのか?がわかっていなければ、何も変われないのだろう。
自分が人生を過ごしていて、こんなふうになりたいと思っているのであれば、その具体的な目標をまずは決める。そして、そうせざる得ない環境設定をしてみて過ごす。
ある程度、過ごしてから目標に対して自分自身がどのような変化があったのか?設定した環境がそもそも現実的なのか?検証して環境設定PDCAを回す。
環境が変わらない状況で、変化すると言うことはものすごい意志の力が必要となるわけで。
そんな自分の意思の強さに自信があるのであれば、どんどんと進むことができるのだろう。

もし、目標が「お金をなるべく使わない生活がしたい」と思うなら、イオンモールに行くことを控えるべきであり、Amazonのサイトを見るべきではなく、YouTubeのアプリをアンインストールするべきだろう。
人は誘惑に弱く、広告はとてつもない購買影響を及ぼすことを肝に銘じておく事で、お金をなるべく使わない生活に一歩進むのだろう。

もし、目標が「自然に痩せた体型を維持したい」と思うのであれば、スーパーマーケットの買い出しは極力まとめ買いにして、ファーストフードのロゴを見ないようにして、家にすぐ食べれるモノを置かない事だろう。
飽食の時代である現代は、カロリー摂取においてそこまでコストはかからず、食べ物を手に入れることに関しては便利であるが故に自然に生きていると食べ過ぎてしまうのだろう。

但し、環境設定が適正かどうか?を常に見直す必要がある。

お金の浪費原因は、もしかすると友人が貴方に見せびらかすブランドものかもしれないし、太る原因は、愛すべき奥様が貴方のために沢山の料理を作ってくれたことかもしれない。

悪気があろうとなかろうと、環境は確実に自分へ影響するのだから、もし目標があるのであればその環境を変化させる必要はあるのだろう。

ふと紙とペンを持ち、いまの環境を書き出してみると案外気付きがあるのではないでしょうか?

戯言ですが。